3-9-8 鶏鳴狗盗の徒 - カトリック情報 Catholics in Japan

『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

9 富国と強兵

8 鶏鳴狗盗(けいめいぐとう)の徒

 有能の士をたくさん召しかかえようとしたのは、国王だけに限らない。

 戦国時代の後期になると、諸国の公子たちや宰相のなかにも、召しかかえた食客(しょっかく)の多いことで聞こえた者が、あらわれた。

 食客というのは、客分としてあつかう家来のことで、いわば居候(いそうろう)である。

 ふつうの家臣ではない、そういう食客を、斉の孟嘗君(もうしょうくん)や、趙の平原君(へいげんくん)、魏の信陵君(しんりょうくん)、また楚の春申君(しゅんしんくん)といった人たちは、三千人も召しかかえていたという。

 孟嘗君の父は、斉の公子(威王の末子)であった。

 その兄にあたる宣王のもとで宰相となり、さらに?(びん)王の代におよんで、領地を薛(せつ)にあたえられた。

 よって薛公とよばれた。そのあとをついだのが、孟嘗君である。

 「君(くん)」というのは、諸侯(王)のもとで領地を持っていた殿様の称である。

 さて孟嘗君は、しきりに諸国から賓客をまねき、家産を投じて、あつく待遇した。

 よって集まる者は数千人、なかには罪をおかして逃亡してきた者さえあった。

 これらの食客を、みな自分とおなじように、しかも平等に遇したから、客たちも心から帰服した。その評判をきいて、秦の昭襄王が招いた。孟嘗君を、秦の宰相にしようと考えたのであった。

 時に昭襄王の三年(前二九九)である。しかし、いさめる者があった。

 孟嘗君は賢人であり、かつ斉の王族である。

 秦の宰相となっても、かならず斉の利益を先にし、秦のことを後にするであろう、と。

 そこで昭襄王も思いとどまった。

 しかし、そのまま帰国させれば、かえって秦にとって悪い結果をまねかぬとも限らない。後難をなくすために、孟嘗君をとらえ、謀殺しようとした。

 孟嘗君は昭襄王の愛妾のところに使いをやって、釈放への力ぞえをたのんだ。

 すると、あなたの狐白裘(こはくきゅう=キツネの白いわき毛で作った皮衣)がほしい、という返事である。

 孟嘗君は狐白裘を一着持ってきていたが、その価は千金、天下無双の珍品であった。しかも泰にはいると、王に献上してしまった。

 ほかに裘(かわごろも)はない。孟嘗君はこまって、食客たちになにか名答はないか、と問うたが、こたえる者もなかった。

 ただ、最下座の客に狗盗(くとう=こそどろ)の達人がいて、いった。

 「私なら、狐白裘をものにすることができましょう」。

 そこで夜にはいると、狗(いぬ)をまねて秦の宮殿の蔵にしのびこみ、さきに献上した狐白裘を取ってきた。それを秦王の愛妾に献上し、愛妾は孟嘗君のために、とりなしをしてくれた。昭襄王は、`孟嘗君を釈放した。

 自由の身になると、ただちに孟嘗君は帰途につき、その姓名をかえて関所をこえ、夜半に国境の函谷関(かんこくかん)まで達した。

 王は、あとになってから孟嘗君を釈放したことを後悔し、その所在を求めたが、すでに去った後であった。

 すぐに人を発し、馬を乗りついで追いかけさせた。

 ところで孟嘗君は函谷関まで達したものの、関所のおきてとして、鷄(にわとり)が嗚くまでは人を通さない。

 孟嘗君は追っ手のくることをおそれた。

 すると食客のなかに、鷄の鳴き声のうまい者がおり、鳴いてみせると、あたりの鶏がことごとく鳴きだした。

 ついに関所の門はひらかれた。しばらくして追っ手が着いたが、すでに孟嘗君の一行は函谷関をてた後であった。

(絵は孟嘗君