病気に就て? ( 哲学 )

 昔から人間にとって病気程厄介なものはあるまい。

 全く人間にとってどうにもならぬものの一つであり、凡ゆる不幸の根本的原因でもあるからである。

 然し何の為に人間は病気に患るのであるか、この原因が二十世紀の今日迄全く不明であったのである。つまり、風は万病の本であると言われるが、この万病の本である風の原因すら未だに不明である事実に依って見ても、如何に病気と言うものが厄介なものであるかが判ろう。

 処が二十世紀の後半に入るに及んでこの病気の原因が判り、その完全なる治療法が確立されたのであるから、人類にとってこれ程幸福なものはあるまい。この発見者が

 明主様であったのである。会員は既に病気に就いては、専門家と称する医学博士も到底及ばぬ程の知識の所有者になって居る事は勿論ではあるが、世間一般の人のために本文を書いたのである。

 世人は、病気とは人間にとって悪いものであり、悪化作用であるとして種々の治療法を行うのは常識となって居るが、この常識が飛んでもない見当違いであって、病気とは本当は、人間にとって必要なものであり、悪化作用どころか、人体の清浄作用であるという事を知らなかったのである。そこで吾々は、病気は浄化作用であると解し、一種の新陳代謝であると唱えるのである。何人も新陳代謝の実在せる事は好むと好まざるとに拘わらず認めないわけにはゆくまい。この新陳代謝の強いのが、つまり新陳代謝に苦痛の伴うものに対して病気と名付けたのである。人間は絶えず必要な食料を飲食して、そして不必要な部分を排泄して居るのであるが、之が即ち新陳代謝である。処が、この不必要な部分が順調に排泄されず体内に残って、次第に溜積されそれが身体各器能の働きの邪魔になる様になると、一度に排泄される事になる。この場合は、日常の新陳代謝には何等苦痛は伴わないけれども、溜まり溜まった沢山の排泄作用には多少なりとも苦痛が伴うものである。これが発熱、不快感、痛み、痒み等の症状であって、これを病気と唱えたのである。

 そこで、これ等の症状はその排泄作用が終れば無くなるものであるから、多少辛くとも我慢して排泄作用が終了する迄待てば病状も無くなるものである。つまり病気に患ったら自然に治る迄待って居れば、浄化終了後は再度というよりは寧ろ、発病前よりも健康体になれるものである。更に本会独特の浄霊法を実行するならば、浄化作用を促進して自然治癒よりも数倍の短時日で全快するものであり、苦痛も元より軽減されるのである。

 処が、この、病気は新陳代謝である事、排泄作用である事、浄化作用である、と言う真理を知らぬ世人は、前述の如く病気を悪化作用と逆解してこれを治す可く採る手段が凡て、排泄作用、つまり浄化作用の停止法であるから、誤りも甚だしいわけである。而も、この停止手段に用いる薬物の如きは凡て毒物であるから、益々人体内に不要物を加増する事となりこの排泄作用が次の病気発生となるのであるから、全く哀れなる事言葉で言えぬ程である。

 そこで、人間病気に患らぬ様にするには何うしたらよいか、と言うと、体内を綺麗に掃除して、常に新陳代謝を抑止体内に不要物を残さぬ様にしさえすれば、それで一生涯無病息災という事になるのである。その為の方法としては健康法として浄霊法を実施すれば、それで目的を達成する事が出来るのである。