本当は何の切れ目もないのです8/14/201

最近、カポエラの記事が多いんですが、

カポエラに関心がなかったら、自分の関心ごとに照らしあわせて

読んでみてください。

全てに通じる話を、カポエラを題材に選んでしていますから〜

毎日、全身筋肉痛ですが、だいぶ慣れてきました〜

気が付いたら、ほぼ毎日、コイブーんとこ行って遊んでもらってます。

rabodearraia!

ハボチアハイア〜〜

エイの尻尾という意味らしいです。

カッコイイ〜〜

この動き、カポエラの回転後ろ回し蹴りで、

オニョ君がはじめに覚えた動きです。

これ!

絵がいい感じで下手くそで、しかもちょっと怖い〜

ネットで落ちていたやつ拝借です。

他にも、動きや技に名前があるのだけれども、

まだわかりませんが、こんなやつも

それぞれに名前があって、一つずつ覚えていくのですが、

これは、言語で言うところの単語です。

徐に、この単語がつながっていき、文が出来上がり、動きで対話できるようになるのだそうです。

記事喃語でも、書いた通り、素人の私は、単語と単語がブツ切れで、

まだ、滑らかに話すことができない状態です。

ここでまた、練習中に、コイブー師範と、面白い話になりました。

カポエラは、大体、3代にわたって、今の形に洗練されたようです。

初めの始祖たちは、技に名前つけていたのかどうかもわからないし、

そもそも、動きそのものを単語にして分けて考えていなかったのではないか〜

といった考察に至りました。

カポエラでは、止まっているということがなく、

全ての動きは繋がっていなくてはならないようです。

しかし、いきなり、達人の動きをそっくりそのまままねるのは不可能です。

そこで、誰もがやるように、一つ一つ動きを分解して、

後からつなげていくことを考えます。

本当は、一続きの連続した動きだけがあるのですが、

おそらく、教育上洗練されていくと、このようにせざる負えないのかもしれません。

しかし、ここに、一つの落とし穴があります。

分解して元に戻しても、元に戻るとは限らないということです。

そこに、意識の連続性、フォノグラム、気の動きの秘密があります。

動きが統合されればされるほど、言葉での指導は不可能になります。

これは、身体も同じです。解剖学的に分解して、いくら概念構成をしたとしても

全体の機能表現することはできないのです。

むしろ、より単純になっていくはずです。

フォノグラムは言語ではないですが、全体性が回復していくと、

図形パターンは単純になっていきます。

この状態を共有すれば、言語によるコミュニケーションを超越して

情報共有することが出来るようになります。

本当は切れ目のないものに、切れ目があるようにしなければ

脳は分析ができないのです。

しかし、脳が分析をしている間は、全体性を欠いているという

二律背反状態に置かれています。

これをもって、言説不可得、不立文字と言っています。

少なくとも日常言語で言い表せるようなものではありません。

もしあったとしたら、それは嘘です。

このように、概念化することの裏には、必ず落とし穴があります。

物事が洗練されていく過程では、どうしても起こっていく過程なのですが

このような事態全てを掌握したうえで、もう一度本質に立ち返る必要が出てくるわけなのです。

こういうことを、コイブー師範とはよく話題にします。

全ての教育の現場で考えなければならない問題の一つではないでしょうか?